2008/10/12

BART

サンフランシスコ国際空港の日本語版のホームページがあることに気がついた。
http://www.sf-japan.or.jp/
空港から市内への交通機関が紹介されている。


Bartlogo

 空港はダウンタウンから少し離れているので、以前来たときには乗り合いでタクシーを使った。運転手はロシア人で、物理学をやっているが仕事がないのでタクシー運転手で稼いでいると言っていた。数十ドルだったと思う。なので、3年前サンフランシスコ空港乗り継ぎでフロリダに行った時には、空港近くのホテルに泊って、ホテルのシャトルバスで行き来した。ホテル代も随分安くつく。ダウンタウンでは安くても$120以下は期待できない。

 今年7月にサンフランシスコに行った時は、BARTなるものがあると聞いたので使ってみることにした。BART、Bay Area Rapid Transit で36分 $5.35。確かに安い。自動販売機で切符を買おうとするが、勝手が分からない。隣の機械で買おうとしているおばさんに「これどうやるんだい?」と聞いたが「私も分かんないのよお」と言われてしまった。他にも使えると書いてあるらしいお得切符らしいものを$20くらいで買って改札を通ろうとしたら、ピーと鳴って入れない。案内所みたいなところにおじさんが居たので文句言ったら、何か切符を機械に通して入れるようにしてくれた。

BARTは1972年9月にサンフランシスコ湾にかかるサンフランシスコ・オークランド・ベイブリッジの渋滞解消とベイエリア地区を東西に結ぶするために開通したのだという。サンフランシスコ国際空港へ乗り入れたのは2003年6月22日だそうで、どおりで、以前無かった筈だ。車体の外見はスマートでいいのだが、シートは穴が空いていたりで、あまりきれいではなかった。10年位前にワシントンの地下鉄に乗った時には非常にきれいだったが、10年も経つとやはりボロくなっているのだろうか。

 帰りもBARTを使うつもりだったが、全く期待外れだった。というのは、ダウンタンのEmbarcaderoからの最初の電車は平日は6時31分なのだが、日曜はなんと8時39分発なのだ。国際線に間に合わなくなる可能性がある。こういう無茶な運行をやるのはさすがにアメリカだ。仕方がないので、ルイジアナのアメリカ人の友人と一緒にハイヤーで空港に行くことにしたが、黒塗りリンカーンで$40、チップも入れて$50位だった。割勘にしようと言ったが友人は受け取らなかった。

 空港のファーストフッドで朝飯を食べて早々とチェックインした。中で土産を買うつもりだった。以前、土産品小物のほとんど全ては中南米や東南アジアからの輸入品なのは知っていたが、今回驚いたのは、中国製品以外のものを探すのが難しかったことだ。コロラドの友人が「アメリカ人は物を作らなくなってしまった」と嘆いていた。

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2007/08/16

大文字

今日は京都大文字焼きの日である。今の時間、もうほとんど消えかかっている。

 大文字の火を見たのは今から50年以上も前の、私が五歳の時だったのだろう。母の里帰り先から戻る途中、具合良く京都駅近くの汽車の中から見たのだった。信州の叔父が教えて呉れたのだった。暗い山肌に大の文字が小さく浮かんでいたのを鮮明に覚えている。叔父は当時中央西線の車掌で長野と名古屋の間を行き来していたので、きっとそのまま信州から一緒に大阪まで送ってくれたのだろう。当時の長距離列車はどれもひどく混んでいて、トイレに行くのもままならなかったし、スリなど犯罪も多かったらしい。父はついて来なかったし、里帰りと言っても三日の旅で、水杯をかわして、お握りをしょって別れたものだという話を祖母から聞いた。この時の旅で、叔父の記憶は大文字だけである。叔父は子供は放任主義で怒鳴りつけるのを見たことがなかったし、私にもやさしかった。レッドパージで私の父を頼って逃れて来て数年暮らしたこともあったという。その叔父も胃ガンで死去してから20年ほど経つ。母もガンで亡くなってから13年経つ。

 自分の目で見た大文字の火はそれが最初で最後、それ以来一度も見たことがない。
Daimonji

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2007/08/07

亜細亜

 8月5日にテレビ朝日系で「BC級戦犯」の特集があった。シンガポールのチャンギ刑務所で処刑された日本人戦犯の124通の遺書を、東京・池上本門寺に田中日淳住職(93)が命がけで持ち帰ったという。

 1941年12月、日本軍は真珠湾攻撃の数時間前からマレー半島の上陸作戦と並行してシンガポールを空爆し、半島南下作戦の末、42年2月にシンガポールを占領した。山下奉文司令官の第二十五軍は、中国系住民に二十一日正午までに指定地へ集合させ、虐殺対象者を選別したという。氏名を英語で書いた者や眼鏡をかけた者は「知識人」で「抗日」だろうといった基準で集めた人々を、トラックで人気のない海岸などに運び、まとめて殺害した。犠牲者には女性や子どもも含まれ、この作戦の前後にも虐殺があり、犠牲者総数は5万人にのぼるという。
 放送の中で、「シンガポール人は口には出さないが、決して忘れていない」という、唯一インタビューに応えた方の言葉が耳に残る。


 1960年代、シンガポールでは工事現場などで大量の遺体発見が相次ぎ、犠牲者を悼む記念碑がセントラル・シティ中央部、地下鉄City Hall駅近く、War Memorial Parkに建てられた。碑文は四言語で、中国語では「日本占領時期死難人民記念碑」と刻まれている。しかし、日本人の観光ルートに入っていないので、日本人に対する知名度は低い。ガイドは説明しなかったが、車の中から台座の碑文が偶然見えてシャッターを切った。

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 日本軍がシンガポールやマレーシアでも住民を大量虐殺したことは、これらの国々の教科書が数ページにわたり記述されている。


http://www.catv296.ne.jp/~mihoppe/newpage1.html
中学の教科書(Social and Economic History of Modern Singapore)


 日本人は、シンガポールにいる中国人が日本と戦う中国を援助するために金を送っていたことを知っていた。日本人はまた、中国の義勇軍が、日本人に対して猛烈に戦ったことも知っていた。彼らに敵対した中国人を排除しようとして、日本人はシンガポールにいる中国人を処罰した。(中略)
日本軍は敵対行為をした中国人を見つけ出す為「検証」するより他に適当な方法がなかった。何千人もの中国人は、トラックで連れて行かれた。そこで彼らは射殺された。死ななかった者は銃剣(銃の先に短刀が固定してあるもの)で死ぬまで刺された。

一光社刊「外国の教科書の中の日本と日本人」より引用


 当時栄国領マラヤの華僑達は、中国政府支援のための抗日救国会を組織していた。そのため日本軍はシンガポールでも華僑による反日運動が昂まるのではないかと考え、反日かどうかの判断を目的に、何十万という華僑を集め、言葉も通じない憲兵がかなりいい加減に反日分子の摘発を行ったのだと言う。そしてこの時虐殺された華僑の数は日本の公式データによると6000人の死者とあるが、確定できないながらも数万人と言われている。

シンガポールの人々に感じたある種のよそよそしい雰囲気は感違いではなかったようだ。

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2007/07/22

Fine Country

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先々週、学会発表でシンガポールに行ってきた。世界三大がっかりのマーライオンも見てきた。三大がっかりというほどがっかりはしなかった。ベルギーの小便小僧よりはるかに素敵だった。高さは8mありこれは縁起の良い数ということだった。

Singapore is a real FINE place

という言葉通り、シンガポールはタバコやガム、ごみのポイ捨てに$1000の罰金が科せられると聞いていた。ガムは国内への持ち込みもだめだとの事だったので、成田空港のごみ箱に捨てた。

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花があちこちに咲いていた。台湾や韓国に比べると確かにゴミの落ちていない清潔な町並みだったが、マーライオンの付近の海にはゴミが浮かんでいたし、タバコの吸い殻も落ちていた。日本の、ゴミは少しは落ちているが比較的きれいな都会の町並みと、そう差があるとも思えなかった。東南アジアの中ではきれいな街だということで納得した。パリも、裏道には汚水が流れていたし、犬の糞も落ちていた。

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タバコはセブンスターで1000円を越えるとのこと。酒も高い。レストランだとビールが1杯千数百円と聞いた。タイガービールはうまかった。

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シンガポールは活気のある街だった。大きな産業はない。東南アジアの貿易拠点なのだろうと思っていたが、主産業は金融とのことだった。宝くじを始め賭事の場所が多く、国家的なカジノをこれから造る予定とのことだった。パチンコ屋は見かけることはなかった。世界規模の経済の波をうまくかき分けて進んで行くのだろう。

追徴11億円の村上ファンドの成金の家も見た。ロサンゼルスで言えばビバリーヒルズのような高級住宅街にあった。この人も相当頭がいいと思われている(いた)が、このザマである。

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2005/12/18

都会の月の出と日の出

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 12月16日に大手町のビル21階の会議室で開催された報告会で先頭バッターで発表した。5時半から懇親会があり、その最中にビルの谷間から月が登るのに気がついた。都心の月の出を見たのは初めてで、それなりに風情があって面白かった。懇親会は6時半に終わったので、八重洲の地下街で友人と二人で飲み直し、彼は新幹線で去っていき、私は浜松町のホテルに向かった。

 ホテルは増上寺の前で、ここでも窓からまんまるい月が東京タワーの横に見えた。草臥れていたのでそのまま寝てしまい、夜中の3時過ぎに目が覚めた。11時の飛行機に乗る積もりだったが、インターネットで朝1番に変更して6時半にチェックアウトした。羽田で出発を待っていたら、今度は朝日が登って来るのに気がついた。これもまた面白い風景だった。

 18年ほど前、テネシーからルイジアナに飛ぶ飛行機の中から見た日没は素晴らしかった。眼下に暗く蛇行するミシシッピー河、遥か遠くのロッキー山脈に沈んでいく夕日。二度と見ることは出来ないだろう。
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2005/11/23

嵯峨野のもみじ

 朝起きてぼんやりとZoomInを眺めていったら、嵯峨野・二尊院からの中継をやっていた。素晴らしい紅葉であった。この寺は嵯峨天皇が建立したのが起こりで、応仁の乱によって堂宇伽藍が全焼したが、本堂・唐門のみ約三十年後再建された。本堂右に釈迦如来像、左に阿弥陀如来像が安置され、本尊が二つあるので二尊院という。お釈迦様は現生、阿弥陀如来は来世の仏様だそうだ。そういえば、葬式ではナマミダブツと唱えるなあ。住職がVサインをしながらそれを説明したのがおかしかった。この二尊院の裏が小倉山で、シカが紅葉を踏み分けて鳴いたというので有名である。小倉百人一首の小倉もこの山のことだそうで、今ごろになって高校生の時に学んだことが現実に結びついたりしている。もっと学んでおけば今楽しめるのだろうにと残念に思う。

 この唐門からの紅葉で思い出したが、昔、38年位前になるだろうか、嵯峨野という家具調カラーテレビがあり、この嵯峨野・二尊院唐門の紅葉がテレビの画面に映っている写真がパンフレットに使われていた(嵯峨野ではなく嵯峨が正しい)。どこのメーカーだったかはっきりしないので、調べてみたらこの写真を手がけたという広告写真のカメラマン尾林 正利さんのWebが見つかった。
http://www.eonet.ne.jp/~maxim/contents/column/column_AC019.html
白黒テレビが全盛の頃に恐らくは1台数十万円、今なら高級車に相当するような高価なテレビだったと思う。当時のカラーテレビはまだ真空管式で500W位の電力を食っていた。高級カラーテレビと嵯峨野のイメージが今でも強烈に記憶に残っている。尾林さんのコラムによればテレビのメーカーは松下である。そういえば、同じような宣伝で高尾というカラーテレビもあった。多分東芝であろう。(と思ったが三菱だった)

 ゆっくりと旅を楽しみたいのだが。

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2005/07/09

ロンドンの監視カメラ

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 今日は土曜日だけれど、父母面談の日である。受け持ちは3人。うち一人は非常に優秀で、全く問題ない。あとの2人は留年や進級で苦労している。親御さんはいろいろ心配されるのだが、学生本人もいろいろ悩み多き年ごろで親とのコミュニケーションはやはり良くない。親の気持ちを慮ることができるようになるにはあと10年はかかるだろう。それにしても、親のすねをかじりつつ、専門に上がってもまだ進路を悩んで足踏みするというのは、親不孝というものだ。
 さて、前述の学会中にロンドンにいる従姉妹が市内を案内してくれた。バッキンガム宮殿、トラファルガー広場、ビッグ・ベン、ロンドン塔、ロンドンブリッジ、ピカデリーサーカス、ウエストミンスター寺院、などなど主だった所は見て廻った。ブレアの奥さんがネグリジェのまま出て来たという首相のアパートの通りも覗いた。ロンドン塔の所でミステリーツアーのオジサンの解説を聞いていたが、なんだかよく分からなかった。お決まりのドバトが足下をうろうろしていたが、中には皮膚病持ちの汚らしいのも混じっており、餌をやるのは禁止だとのことだった。東京よりもずっとこじんまりとした都市の印象を持った。今度爆破された地下鉄にも乗ったが、乗った路線が古いものだったらしく、車体が名前のとおりチューブ状で壁に寄りかかると体を曲げねばならず、しかもトンネルの壁ぎりぎりを走る。駅のホームも古びて天井が低い。確か地下鉄の歴史は世界一古く、昔は蒸気機関車で引いていたのではなかったか。煙がさぞ凄かっただろう。
 ピカデリーサーカスのあたりのハロッズだったかどこだったかで、お茶を飲んだ。イギリスのホテルはどこでもティーバッグとビスケットが必ず部屋に置いてあり、さすがお茶の国だと思った。しかし、夕食を従姉妹夫婦と一緒にすることになったが、選んだ店はインド料理のレストランだった。シラクの皮肉に対してイギリス人がインタビューに答えていたが、10年前に比べればイギリスの食事は大変美味しくなったと言っていた。しかし、5年前ですら、イギリス人自身が、美味しいものがないからとインドレストランに連れていくというのは、やっぱり美味くないということだろう。
 イギリスは監視カメラが数百万台設置されているということだ。事実、写真のように駅に監視カメラ設置の張り紙があった。それでも爆弾テロを防げないのである。ブッシュ親子の間違いが結局パンドラの箱を開けてしまったのだろうか。

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2005/07/08

ロンドンのこと

 ロンドンで同時多発爆弾テロが起こった。恐らくはアルカイダの犯行だろうとのことである。G8サミットが開かれている最中であり、さらに2012年のオリンピックがロンドンで開催されることになったとのニュースの翌日なので、衝撃はさらに大きかった。8日現在で死者50人以上、負傷者700人以上と発表されている。イギリスはヨーロッパの他の国々が反対している中でほぼ単独でアメリカのイラク攻撃に同調した国である。その事が、ヨーロッパの中でのぎくしゃくした関係を産みだすもとになっている上に、アラブ過激派の攻撃にさらされる結果となったようだ。
 5年前にイギリスの国際学会に出席した。それが初めてのイギリス行きでいろいろ期待していたのだが、これが大外れ。まずは、オランダスキポール空港からヒースロー行きの飛行機が誠にお粗末。シートの脚の金具はまるでバスの停留所のベンチ。配られたハンバーガーは、まるで冷凍したものを電子レンジにかけたハンバーガーがまた冷えてしまったような恐ろしくまずいもので、半分で食べるのを諦めた。ヒースローからタクシーに乗って先輩と待ちあわせのホテルに行くが、同名のホテルがもう一箇所あり、結局どちらでも見つからず。フロントの愛想が極めて悪い。そもそも、ホテルの入り口が非常に狭く、かつ敷居があって海外旅行用の大きな荷物を持ちながら出入りするのに極めて不便である。仕方なく、学会の開かれる町に行こうと駅で電車を探すが掲示板が見当たらない。やっとの思いで電車に乗ったが、途中で停まってしまう。車内アナウンスもない。草臥れ果てて、到着駅からさらにタクシーで予約したホテルに行くが、迷路のような通路を通って部屋に案内される。日本に国際電話をかけようとするが、通じない。揚げ句の果てには隣から大音量の音楽が聞こえてきた。翌日早々に別のホテルを探しに行く。10軒目くらいでやっと空いているホテルを見つけるが1泊2万円位で非常に高かった。
 学会のオーガナイズはこれまで参加した中で最悪だったがそのことはまた書こう。そこらのレストランで昼食を何回か取ったが、美味しいと思ったのはタイレストランだけだった。パブに行ったが、生暖かいビッタービーア、おつまみは小さな缶入りのナッツのみ。シラクが料理の下手な人間は信用しない、と言ったのにはうまい事言うと思った。
 こんなだったから、パリ行きのユーロスターで出た昼食はひどく豪勢に見えたし、実際美味しかった。この話はまた続きを書こう。P7250071

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2003/02/11

松井選手は興味ないだろうが

元巨人軍の松井選手が入団したニューヨークヤンキーズのキャンプはタンパで行われるのだそうだ。 タンパと言えば一瞬、短波放送を連想するのは年のせいか。これはフロリダ州の西岸、Hilsborough 湾に臨む大きな街である。

タンパの南の端にSt. Peterersburgという街がある。この街へ行くにはインターステート75号線から275号線に 下りて、Sunshine Skywayという有料道路を行くのが近い。この道はHilsborough 湾からメキシコ湾への 出口にかかっている非常にきれいなトラスト橋を渡る。写真は10年ほど前のものだが、解体中の橋も 写っている。古い方の橋は、ある日前触れもなく橋げたが落ちたそうで、我が友人はその1日前に 通ったばかりで命拾いしたと言っていた。

橋を渡ってSt. Peterersburgに入り、国道から出てしばらく住宅街を走ると、Salvador Dali美術館 がある。溶けた時計などで著名なシュルレアリズムの画家である。中学や高校の美術の教科書に出て くるような有名な絵がいくつも飾ってあった。ここも、スミソニアンを始め、大小の博物館や 美術館と同じく、小学生らしい子供たちがたくさん見学に来ていた。日本のように名画がガラス越しに しか見れないということもほとんど無い。こういう環境で育つことのできる子供たちは羨ましい限りだ。
http://www2.odn.ne.jp/ccq09380/x10art/p01dari.htm
これらの絵のいくつかはSt. Peterersburg の美術館にああるものだと思う。

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2001/08/03

パリのドーナッツ

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 15年ほど前、USA Louisiana 州の首都Baton Rouge に居たことがある。ルイジアナ州は、もともとフランスの領地であったか ら、その影響がいろいろな所に残っている。例えば、New OrleansのFrech Quarterなどはその代表的な場所である。

 ある朝、仕事仲間のドイツ人の友人Voitが、大学の近くのモールの小さなフレンチスタイルのカフェに連れて いってくれた。このカフェもアメリカのファーストフードの店にはない雰囲気があった。アメリカのいわゆるドーナッツも 日本でおなじみの真ん中に穴の開いたものが普通なのだが、このカフェのドーナッツは、一辺5cm位の四角い座布団 のような形をしていてパウダーシュガーがたっぷりかかっていた。Voitによれば、それはフランスオリジナルのもの だとの事だった。いつか、本場のフランスで食べてみたいと思っていたのである。

 ところが、パリのどのカフェに行ってもお目にかかれない。ある朝、ルーブル美術館の近くのカフェにはいり、 「ドーナッツはないか」と尋ねるが、「そんなものはない」という。「ベヌーイ(?)のことか」と聞かれたのだ がよく聞き取れず、結局、ホットドッグのようなものとカフェオレを注文して、またまた目的を果たすことができ なかった。きっと「ベヌーイ(?)」がそうだったのだろう。調べて行かなかったのが悔やまれる。

 その後やっと正体を見つけた。 カフェ&ベニエ カフェデュモンド池袋 で食べられるとのこと。是非行ってみよう。(2003年2月14日rewrite)

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2001/08/02

シャルル・ド・ゴール空港

 シャルル・ド・ゴール空港はパリ郊外にある。私は、その日朝イギリスを発ち、国際特急のユーロスターでフランス に入り、リヨンでTGVに乗り換えかえて、シャルル・ド・ゴール空港駅に到着したのだった。この駅は新しく、 明るく清潔な近代的な建物だった。ド・ゴール空港でオランダから飛行機で着く友人の医師と待ちあわせてい たのである。

 空港のターミナルビル内の通路を歩いて行くと、ぐるっと一週してまた元の場所に戻る。チーズのカマンベールに 似せて作られたとか。そういうビルが点々と数棟建てられていて、道路で結ばれている。空港の敷地は非常に広く、 さらに拡張するのだという。

 ところが待てど暮らせど、友人の飛行機は到着しない。空港内で説明もない。到着予定掲示板の表示が頻繁に 変更になっている。4時間も経って、ようやく到着した彼の口から、初めてコンコルドが落ちたことを知らさ れた。2000年7月26日のことである。

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2001/08/01

未知との遭遇

 スピルバーグの初期の映画に「未知との遭遇」という有名な作品がある。宇宙人と地球人が初めて 遭遇するというストーリーは単純であるが、スピールバーグならではスリリングな話の展開だった。 映画の中で、平和的な宇宙人との大規模な遭遇の場所として設定されていたのがアメリカの ワイオミング州の北東にある、デビルズタワーの麓であった。この奇妙な岩山は映画の初めの方で伏線として出て来て、ストーリーの展開上重要な鍵となっていた。

 主人公が何かに憑かれたようにこの岩山に向かうのであるが、実在の山であることを知って是非 とも行ってみたいと思っていた。念願かなって、オハイオからオレゴンへの家族との旅の途中 に立ち寄った。

 インターステートからわき道に入り雨上がりの道を1時間以上走り続けた。 写真のように、たくさんの縦じまのついた巨大な溶岩の柱が広い原野の中にポツンと立っていた。 インデアンの言い伝えでは、この溶岩の柱よりも巨大な熊が爪でひっかいて、この柱の縦の傷になっ たのだそうな。ロッククライマー達が、その縞の一つ一つを辿って制覇し、その年月日を記した 写真がビジターセンターに飾ってあった。

 駐車場のナンバープレートを見ると圧倒的に地元が多かった。オハイオナンバーは我が家の車 だけだった。

 ブログは未知との遭遇になるのだろうか。

devil

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