亜細亜
8月5日にテレビ朝日系で「BC級戦犯」の特集があった。シンガポールのチャンギ刑務所で処刑された日本人戦犯の124通の遺書を、東京・池上本門寺に田中日淳住職(93)が命がけで持ち帰ったという。
1941年12月、日本軍は真珠湾攻撃の数時間前からマレー半島の上陸作戦と並行してシンガポールを空爆し、半島南下作戦の末、42年2月にシンガポールを占領した。山下奉文司令官の第二十五軍は、中国系住民に二十一日正午までに指定地へ集合させ、虐殺対象者を選別したという。氏名を英語で書いた者や眼鏡をかけた者は「知識人」で「抗日」だろうといった基準で集めた人々を、トラックで人気のない海岸などに運び、まとめて殺害した。犠牲者には女性や子どもも含まれ、この作戦の前後にも虐殺があり、犠牲者総数は5万人にのぼるという。
放送の中で、「シンガポール人は口には出さないが、決して忘れていない」という、唯一インタビューに応えた方の言葉が耳に残る。
1960年代、シンガポールでは工事現場などで大量の遺体発見が相次ぎ、犠牲者を悼む記念碑がセントラル・シティ中央部、地下鉄City Hall駅近く、War Memorial Parkに建てられた。碑文は四言語で、中国語では「日本占領時期死難人民記念碑」と刻まれている。しかし、日本人の観光ルートに入っていないので、日本人に対する知名度は低い。ガイドは説明しなかったが、車の中から台座の碑文が偶然見えてシャッターを切った。
日本軍がシンガポールやマレーシアでも住民を大量虐殺したことは、これらの国々の教科書が数ページにわたり記述されている。
http://www.catv296.ne.jp/~mihoppe/newpage1.html
中学の教科書(Social and Economic History of Modern Singapore)
日本人は、シンガポールにいる中国人が日本と戦う中国を援助するために金を送っていたことを知っていた。日本人はまた、中国の義勇軍が、日本人に対して猛烈に戦ったことも知っていた。彼らに敵対した中国人を排除しようとして、日本人はシンガポールにいる中国人を処罰した。(中略) 日本軍は敵対行為をした中国人を見つけ出す為「検証」するより他に適当な方法がなかった。何千人もの中国人は、トラックで連れて行かれた。そこで彼らは射殺された。死ななかった者は銃剣(銃の先に短刀が固定してあるもの)で死ぬまで刺された。 |
一光社刊「外国の教科書の中の日本と日本人」より引用
当時栄国領マラヤの華僑達は、中国政府支援のための抗日救国会を組織していた。そのため日本軍はシンガポールでも華僑による反日運動が昂まるのではないかと考え、反日かどうかの判断を目的に、何十万という華僑を集め、言葉も通じない憲兵がかなりいい加減に反日分子の摘発を行ったのだと言う。そしてこの時虐殺された華僑の数は日本の公式データによると6000人の死者とあるが、確定できないながらも数万人と言われている。 |
シンガポールの人々に感じたある種のよそよそしい雰囲気は感違いではなかったようだ。
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